信じられない信じられなさを信じられるようにと信じよう

 人が突然まったく別人のような行動を取ったり言葉を発したりしだしたとき、ボクはその人のそれまでの行動や発した言葉を鑑みて、その人の変わり身をして信じられないと思ってしまう。ある程度自覚しているのだけど、それはまったく早急な結論だし、人がそれまでの行動や言葉、つまり過去の行動様式に従わなくてはいけないという理由はどこにもない。むしろボクは過去の行動様式なんてものはリアルタイムに破壊しながら生きてしまえ! というくらいの過激さを賞賛する方だと思うのです。
 それがなぜだろう、とくに親しい人の変わり身にはときどきがっくりさせられます。
 もちろん、ボクにあらわれる影響が良いものでアレ悪いものでアレ、それは親しい人だからこそ影響が出るのであって、たとえ毎日同じ通勤電車の同じ車両に乗るうちになんとなく顔に見覚えがあるようになって来た人が突然イメチェンをはかったりしてもまったく何のショックも受けないし、それに何かを感じるということは(それもそれなりのエネルギーを持ったものを感じるということは)裏を返せばその人の存在がボクにとって大きいということを示していることにもなる。
 ボク自身は過去からあまり変化していないように自分では思うけど、それでもやはりものの考え方や生き方はそれなりに変化しているのだと漠然と感じる。10年前のボクと今のボクを比べて『おまえは変わった。信用できない』と誰かに言われたとしたらいい気はしないだろう。それと同じようなことを(口にこそ出さないにせよ)ボクは人に感じているのだろうか。

死を選択する権利

 greenplastic.netというなぜかPVだけは多いけど果たしてどれだけの人が読んでいるのかホントのところはよくわからないブログを4年近く続けているのですが、それとは別に、ここでは比較的まとまりのないことを書こうと思っています。あちらだってまとまりがないじゃないか、と言われればそれまでなのですが。。。
 最近考えるともなく考えていることは、死についてです。ひとつには富山のある市立病院での尊厳死(より正確に言うなら、延命治療の停止)を巡る報道というパブリックな問題、もうひとつは4月に入ってから立て続けに列車の人身事故に出くわしたというプライベートな問題、この2点がボクをして死について考えせしめたわけです。
 考えたことのひとつは、自殺についてです。自殺をした人をさして『簡単に死ぬのは間違っている』とか『本人にしかわからないやむにやまれぬ事情があったのだろう』とかいった反応を見せる人は多いような気がするのですが、おそらくその両方とも正しくて間違っているような気がします。結局のところ、なぜ自殺したのかということは本人にしかわからないし、本人からその事情について説明があったとしても(たとえば遺書という形で)、生と死の狭間を飛び越えていく瞬間に何を思ったのか、生と死の狭間を目前にして踏みとどまらなかったのはなぜなのか、ということは他の誰にもわかりえないんじゃないかと思います。なぜ自殺したかということはわかり得ないけど、なぜ自殺しなければならなかったのか(そうしない選択肢はなかったのか)ということが生き残ったボクたちが考えていかなければならないことだと思っています。社会の問題として。
 富山の病院の尊厳死を巡る報道もきちんと追いかけていないのではっきりしたことが書けないのですが、関係者の証言が2転3転したり、はたまた自宅の玄関に張り紙をするという形でマスコミに声明を出したりするという、いささかアクロバティックな様相が見え隠れしています。当初、もちろんはっきりとは言わないものの明らかに延命治療を停止した(人工呼吸器を止めた?)医師がまるで殺人鬼であるかのようなニュアンスを含んだ報道がなされていた。それが遺族側から延命措置の停止が本人と遺族側の意向だった、医師には大変お世話になったという報道が流れてくると、その医師が現在の延命治療のあり方に一石を投じたというような報道がなされている。問題はメディアの日和見主義的な下品さではなく、不治の病にかかった末期患者が死を選択する権利についてなのです。
 この2つの出来事が死を選択するという点においてボクをして死について考えせしめたわけです。